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1949年の西鉄クリッパ-ズに始まり、黄金期の西鉄ライオンズ時代、それから太平洋マスタ-ライオンズ、クラウンライタ-ライオンズとなりライオンズは西武ライオンズとなって福岡から埼玉へ移転する。時を同じくして、1988年大阪の南海ホ-クスが福岡ダイエ-ホ-クスとなって大阪から福岡へ移転。一時は福岡からプロ野球がなくなるのではと心配されたが行政や経済界、そして多くのファンの熱意と情熱で受け入れ、今日のソフトバンクホ-クスに至っている。
今日まで約60年間に変わった経営権6社、九州から無くなってもおかしくなかった危機的状況を支えたのはおらが街のチ-ムを愛し続けた福岡人、九州人達だった。陳情・署名活動など、できることは何でもやってきた。まさに「心」の球団になっていたのだ。
1950年代後半、私は福岡県北九州に住んでいた。この時、西鉄ライオンズが黄金期を迎えて福岡は盛り上がっていた。中西、大下、豊田、そして鉄腕稲尾投手を抱して巨人と毎年日本シリ-ズで対戦していた。戦後の復興、そして都会チ-ム対田舎チ-ムという構図の中で日本シリ-ズはチケット取得が困難でまさに「熱狂の渦」となっていた。
そういう時代に私の隣の家に野球大好き、いや西鉄ライオンズ大好きの大工さんがいた。
会うといつも西鉄ライオンズの話をしていた。ラジオ中継があると仕事を休んで聞き入っていた。「明日、福岡に日本シリ-ズを見に行くんや」・・・と言っていたオイチャンの「眼の輝き」は忘れていない。
大分発祥の言葉に平松前大分県知事が推奨した「一村一品」がある。皆、食物などのお土産品に目がいくが、スポ-ツクラブがあってもよい。「おらが街にはこんなスポ-ツチ-ムがある」と123万人の大分県人が胸を張って誇れるクラブ、それがJリーグプロサッカ-チ-ム「大分トリニ-タ」である。
いまやこのクラブは大分になくてはならないものとなっている。毎試合2万人が観戦するJ1で6番目の入場者数。毎年開催されている日本代表戦、大分にもスポ-ツとして応援することの楽しさを味合う文化が定着してきている。試合の日には青いレプユニを着てフラッグを持ちスタジアムへ駆けつける多くのファミリ-を見かける。皆、試合を楽しみに、感動を、ドラマを演出する真剣勝負のおらが街のチ-ムを応援しに出かけているのだ。
勝てば次の試合日までルンルンだが負ければ暗くてグレ-な1週間が待っている。でも応援せずにはいられない・・・心の中にどっしりと根を張りつつある大分トリニ-タがある。
しかし一方で、このクラブを地方で維持・運営していくのは百万都市の福岡の例を見てもわかるように並たいていのことではない。クラブができて14年目の今日、唯一「胸スポンサ-」なしで戦っている大分、ここにはクラブを支えている方々の思いが必要であるし、象徴とも言える顔が必要であると思う。

